小生は約4週間のヨーロッパ研修旅行の後、JTJ神学校で、エゼキエル書、ダニエル書をそれぞれ2時間でまとめて話すという大胆な働きをようやく終えて、ほっとしているところです。それで久しぶりに詩篇ディボーションに絡む発信をさせていただきます。
今回の欧州旅行で何よりも感じさせられたのは、欧州各国における移民問題の複雑さです。特にドイツではそれが深刻な政治問題となっています。
聞いて驚いたのは、ドイツのある都市部の小学校のクラスでは、イスラム教の背景を持つ子どもたちの数が、ドイツ文化の背景を持つ子よりも多くなっているとのことです。それでたとえば、プールに男女の児童を一緒に入れるということが問題にされ出したという事態まで生まれています。
イスラム教的な背景を持つ方が、ドイツの伝統に合わせる代わりに、自分たちの宗教的な慣習を主張することで、それまでの国民的な常識とされていた価値観が通じなくなっているというのです。
イスラム的背景を持つ家族は、伝統的なドイツ人よりも多くの子どもを生みますから、二十年後、三十年後がどうなるか心配だという懸念が切実に広がっています。
そこで一番の非難の対象とされがちなのが東西統一後のドイツを16年間導いたアンゲラ・メルケル元首相です。彼女は「自由」という分厚い著書を書いた理由の一つが、当時の事情を知らせるためだと彼女自身が書いています。
確かにその本を読むと、2015年9月の難民受け容れの決断が、彼女が首相でなくてもそうせざるを得ない事情があったということが伝わってきます。
政権与党は「キリスト教民主同盟」でした。彼らはナチス・ドイツの反省に立ち、あらゆる人間の尊厳を第一に尊重することを党の綱領に記しています。
45年前からの信頼できるクリスチャンの友人が、将来への不安を口にしながらも、「それでも私たちは『約束』は守らなければならない」と口にしたのが印象的でした。
移民問題がどれほど社会を揺るがそうとも、「約束は守る」が国の基準であるべきだということです。それこそ私たちが守るべき基準です。もちろん、そこには約束や法令に反する移民にはお帰りいただくということも含まれます。
国としての約束を守るという一貫性の観点からは、移民排斥を主張する「ドイツのための選択肢」という右翼的な勢力は保守的なクリスチャンからは相手にされません。その理由の一つが、女性指導者アリス・ワイデルは「スイスに女性パートナーとともに住んでいる」というものです。これは公表されている事実ですが、伝統的な家族観を主張しているはずの右翼的な政党が、彼女の存在によってかえって好感を持たれるという逆説が起きているようです。
しかし多くの保守的なクリスチャンにとっては、その右翼政党の一貫性のなさが何よりも批判の理由とされています。
詩篇95篇1–11節「主の牧場の民、御手の羊」
この詩篇の冒頭は「さあ、喜び歌おう……喜び叫ぼう」という呼びかけから始まります。そして、「主 (ヤハウェ) 」が「私たちの救いの岩」として描かれるのは、「ホレブの岩から水が出て、民はそれを飲む」(出エジ17:6) と言われた主のみわざを思い起こさせるからです。
続けて、「御前に進もう」という招きが「感謝をもって」と記されます。ここには、しばしば描かれる主の御前に近づく恐怖と正反対の表現です。
またそれが「賛美をもって 主に喜び叫ぼう」と最初の呼びかけが繰り返されます。「主を恐れる」ことは信仰の基本ですが、それは大胆に喜び歌い、喜び叫びながら主に近づくことと矛盾はしません。自分の罪深さを反省する以前に、そのような姿勢が必要ではないでしょうか。
3節では「大いなる神」「大いなる王」という言葉が繰り返され、主の偉大なご支配が賛美されます。そして、その偉大さが、「地の深み」「山々の頂」「海」「陸地」のそれぞれが「御手のうちにあり」「主のもの」として「造られ」「形造られ」と描かれます。
6節ではそれまでの大胆さと対照的なように、「来たれ。ひれ伏し 膝をかがめよう……主 (ヤハウェ) の御前にひざまずこう」と呼びかけられ、そこに「私たちを造られた方」と付け加えられます。そして7節は、「なぜなら、主は私たちの神、私たちは その牧場の民 その御手の羊 なのだから」という、主を恐れるべき理由として訳すことができます。
それを受けて、7節の3行目から新しい展開が始まります。そこでは、「今日 もし御声を聞くなら あなたがたの心を頑なにしてはならない。メリバでのように 荒野のマサでのように」と記されています。
これは冒頭に記した出エジプト記17章の出来事を引用したものです。神がイスラエルの民をエジプトでの奴隷状態から解放し、海を二つに分けてエジプト軍の追撃を退け、荒野でマナを天から降らせることによって民を養ってくださいました。
ところが彼らがシナイ山のふもとの手前のレフィディムに宿営したとき、「民はモーセと争い、『われわれに飲む水を与えよ』と言った。モーセは彼らに『あなたがたはなぜ私と争うのか。なぜ主 (ヤハウェ) を試みるのか』と言った」というのです (出エジ17:2)。
先の「メリバ」とはここでの「争い」を、「マサ」とは「試み」を意味します。神はモーセを通して岩から水を出してくださいましたが、彼らは主を試みたり、争ったりする代わりに、主に信頼して、静かに祈ることが求められていたのです。
彼らはそのように主に信頼しなかったので、四十年間のもの間、荒野をさまよい、「その世代」の成人はだれも約束の地に入ることができませんでした。それは主ご自身が、彼らの「心の頑なさ」、神を「試み」る「心の迷った」状態に「怒り」を発せられ「彼らは決して わたしの安息に入らせない」と誓われたからだと描かれています (9–10節)。
ヘブル人への手紙3章では、7–11節が引用されながら、「兄弟たち……不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。『今日』と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい」と勧められています (12、13節)。
そして現代の私たちも「生ける神から離れる」なら、最終的な「神の安息」(ヘブル4:10) に入ることができないと警告されています。
【祈り】主よ、あなたが私たちをご自身の「牧場の民 その御手の羊」と呼んでくださることを感謝します。羊が良い羊飼いによって養われ、導かれるように、私たちもあなたに信頼します。争い(メリバ)、試み(マサ)の思いから解き放ってください。

